原始的な風景

 

もう15年以上も前の話だ。

当時LCCと呼ばれる格安航空会社は存在こそしていたもののメジャーなものではなく、長距離の移動といえば列車かバスが定番だった。その日、私はホアランポーン駅から夜行列車の2等車両で東北部ノンカーイに向かっていた。久々の長期休暇の旅行先に、よりにもよってラオスの首都ビエンチャンを選んだのだ。

「ビエンチャンには何もない」というのは既に旅行者の間では常識となっており、それが逆に私の好奇心を搔き立ててた。いくら小国とはいえ一国の首都だ、何もなくはないだろう。列車はほぼ定刻通りにゆっくりと発車し、蛾が群がる街灯に照らされぼんやりとだけ確認できる線路沿いスラムの街並みの中をゆっくりと走る。駅の売店で購入した缶ビールを開け(当時は列車内での飲食が可能だった)、車窓の外を眺めながら2時間は経っただろうか。やがて列車はバンコクの街を抜け、街灯の光すら見当たらない凶暴なまでに暗い漆黒の闇の中を猛スピードで走り始めた。

東京での多忙な日々と複雑怪奇な人間関係に完全に疲れ切っていた。「旅に出たい」。多くの人がそう思うのは、異国に身を置くことで自身の日常を一時的にせよ忘れたい時だろう。この時の私がまさにそうだった。休暇申請の承認がおりた直後に新宿の旅行代理店に駆け込み、成田ーバンコク間の往復購入券を購入した。手元にあるのは小さなボストンバッグに詰め込んだ衣類と、皺くちゃになるまで読み込んだ旅行情報誌のみ。

しばらくすると、とても堅気には見えないいかつい風貌の男性車掌が、「スリープ!」と一言だけ発して窓のシャッターを閉め下した。どちらにせよ窓の外に見えていたのは一面の闇だけだ。

眠りに落ちてから数時間後、寒さで目が覚めた。時計に目をやると既に午前6時。乾季の早朝とはいえ常夏の国タイで寒いと思ったのは初めての経験だった。鳥肌がたつほどの寒さだ、呼吸のたびに白息がたつ。乾季のイサーン地方がバンコクより遥かに冷え込むことを、この時はまだ知らなかった。

橙色の朝陽が差し込む。車窓の外に目をやると、そこには日本で見たことがない景色が広がっていた。赤茶けた広大な大地に田畑が延々と続き、水牛がのっそりと緩慢な動きで草を啄む。その間をバイクに乗った若者が時折疾走し、高床式の家屋からは幾筋かの煙がほっそりとたちあがっている。

圧倒的な自然の中で生き抜く人間の原始的な生活風景だった。

荒々しいほどの自然と、その中で生き抜いてきた素朴な人間の営み。

言葉にできない感情が胸中に湧き上がっていた。しばらく窓に乗り出し、茫然とその景色を見つめていた。そして、自然も含めた「世界」における自分の立ち位置への認識が、この時、確かに変わった。